座右の銘「グーで殴る」

セカンド童貞がお金持ちのお嬢様のリムジンに轢かれた事をきっかけに逆玉に乗るまでの日々

捨てることと嫌われること

人間には得意不得意がある。


俺は捨てることがめちゃ苦手だ。


先生になった時に使うかもしれないと、自分の履歴書に載らない大層な名門校の赤本をずーーっと本棚1番上で温めていた。


ポケモンで言えば、げんきのかたまりが使えない。


ゼルダ64で言えば、青の薬が使えない。


ファイナルファンタジーで言えば、ラストエリクサーが使えない。


初めてキスをした女の子からのラブレターだって、いつかスナイパーに胸を撃ち抜かれた時にたまたま俺の胸ポケットに入ってて銃弾止めてくれるかもしんねぇな、とか思うと捨てられない。


とにかく、居合斬りの瞬間を待って待って、今だ!と思う頃には自分の首が落ちてるか、仲間が敵の首を刎ねてくれてる。そんな男なのだ。自分ではタイミングを逃し続ける。


これは慎重であるとか、男らしくないとか、用心深いとか、思い切りがないとか、身長が低いとか、周到とか色んな言葉に置き換えられる。


そんで人間関係にも完全に敷衍して当てはまっていて、人に嫌われるのが怖いが故に常に言葉の裏を考えてしまう。


「どれどれ?彼女この人?うわめっちゃいい子そう〜!」は「別に可愛いくねぇな」を


「行けたら行くわ」は「めんどくさい」を


「これはマニアにはたまらない一品ですね」は「言うほど美味しくない」を


「電車遅れててさ」は「うんこなう」か「今電車乗るわ」を含んでいることが多々あると思って聞いている。


最近人にわかってもらえないな、と思うことが増えた。


自分が本当に喜んでることが信じてもらえなかったり、相手が言う俺がこういうことが好きでこういうのが嫌いみたいな事が、てんで外れてたりとかそういうのが多い。


相手の言葉の裏を探しに探して、空港ばりにボディチェックとかしちゃって、傷つかないようにと必死な俺の猜疑心が臭いみたいに相手に伝わっちゃってるって事なんじゃないかなって思う。


構え過ぎてる結果、相手の中の自分の言動とか印象の一致が起きなくて輪郭がボヤけてきちゃうみたいな。


もう少しナチュラルにいれたらと思うんだけど、新しい環境や分析しきれてない人の前ではすっかり借りて来た猫、相手を観察する事に徹してしまう。


強く、優しく、正しくいるなんて事はできない。その全てが矛盾しているからだ。立派になんてなれない。


だからせめて、優しくいたい。今、自分には優しいが他人には優しくできていない。


甘やかす事と優しくする事は同義ではないところまでは、思慮分別があるつもりだ。


優しくいたい。オロナインのように。バファリンの半分のように。


おわり(・ω・)





社会人とダックボイス

三月が終わる。


なぜ1月から始まって12月に一年は終わるのに、事始めは4月なんだろう。春の陽気というものがなんらかのポジティブ感を与えるからだろうか。


花粉症の身としては最も精力的にだらけていたいところに、別離や邂逅がどかどか乗っかってきて、頼むから、少し、休ませてって感じだ。


今、卒業証明書の発行予約をしに大学に向かってる。

いちご100パーセントで真中が、「こんな紙切れ一枚持たされて、機械的に押し出されてく」みたいなこと言ってたけど、まさにそれだ。


大学に愛着はないけど、学生でなくなってしまうことがめちゃ怖い。


卒業式というイベントがもう今後しばらく自分の人生に現れないと思うと、怖くて怖くて仕方がない。


気づけば23歳になった。やばくない?23歳だよ。素数だぞ?

1と23以外で割り切れないんだよ?


黒崎一護(17)も、車谷空(17)も、真中淳平(18)も皆歳下になってしまった。皆5個以上歳下。イルカ先生は同い年。高田純次は57個上。


今凡例にルフィあげるかめっちゃ迷ったけど、あいつは社会性なさそうだからノーカン。


小学生の頃は、何にでもなれると言われた。中学生の時も、ちょいちょい言われた。

高校からは言われないし、大学では自分で専門性を決める。


大人になるとか言うけど、大人なんてものは子供が勝手に作り上げた偶像だ。皆一皮剥けば子供なのに、歯を食いしばって一生懸命大人というロールを演じている。それが社会人なのかもしんない。


大方の稀有な才能を持たない人間にとって、それが飯を食っていくのに1番最適な方法だからだ。


と、少し社会人と触れ合うようになって思う。


未だに俺は真顔でうんことかちんことか言われるだけで笑っちゃうし、精神年齢は18から絶対変わってない。


仮に大人になるというイニシエーションがあるとすれば、大人という鋳型にハマるように可能性を削っていくことだ。


パイロットになる可能性、先生になる可能性、いくつもの可能性を捨ててこそ、人は社会にコミットして、初めて社会に文句を言えるのかもしんない。


なんてことをあと二週間で社会人、というところに置かれると考えてしまう。


ブログを書こうと思ったのは大学時代の形ある思い出があんまりなかったからだ。


しかも大学時代は高校〜浪人時代に比べてかなり脳が腐った感じある。


肯定的に言うと要領が良くなった。誤魔化さずに言うと、擦り切れるほどの本気みたいなのが出せなくなった。器用に手を抜くことを覚えた。


いや、そうでもないかも。昔からマット運ぶ時とかに力入れずに手を添えてるだけのタイプではあった。


こないだ過去の自分のブログや、レポートを見て、総合的に過去の方がちゃんとしてるなって思ってしまった。


過去よりも真摯でいるために、きちんと人と交流するために、時間を作ってブログを書こうと思った。


おわり(・ω・)