目を見て話せ
今日は会社の同期になる人たちと遊んできた。
今の時期真っ黒なスーツに身を染めた就活生をチラホラ見かける。自分も去年はそうであったのだが、同じ苦節を味わったものとして応援せずにはいられない。
そもそも就職活動とはなんたる茶番なんだろうか。4回程度の面接で俺の何がわかるというのか。それをわからせて、尚且つこいつと働きたいと思わせるのが就活というゲームなのだが、これには確実に得意不得意がある。
それなのに何故か就活は人間性を問われてる、と解釈されている風潮がある。就活を丁寧に切り取った朝井リョウの「何者」の映画版のコピーも「この中で人間として1番価値のあるのは誰だ」みたいな感じだった。
おそらくそれは今まで点数勝負の世界であったからだろう。中学というバラエティ豊かな動物園の中で、輪切りにされた学力で高校に入る。更にその規模を全国に広げ、大学では1点2点の世界で更に篩にかけられる。
今まで答えを用意した奴が評価されたのに、急にその物差しはグニャグニャに曲がり、採点はブラックボックスにぶち込まれる。
急に尺度がわからなくなった勝負の中で、就活生は内省できるものとして今までの人生を挙げてしまう。
しかし、少なくとも新卒採用の就活は決して人間性の勝負ではないように感じた。印象操作だ。利益を出せる人間かどうか。
馬鹿でもペーパーテストにイカサマのチャンスは平然と与えられてるし、裏道もたくさんある。いかなる手を使ってもこいつが欲しいと思わせられるか否か以外はどうでもいいことだ。
どんな就活生でもどの業界も百戦錬磨みたいなやつはそうそういない。服や味の好みが人によって違うように大方にウケる人はいるが、100パーみんな好きってのはありえない。
何が言いたいかって言うと、面接に落ちても人間性がどうこうじゃないよってことがこの記事を通して就活生に伝わればいいな、と思う。
俺は受験を失敗した強迫観念に駆られて、クソみたいに就活漬けだった。
これ以上道を踏み外したら終わると思っていた。コミュニケーションという自分が得意とする場面で道を踏み外したら、自分が今まで享受してきた「普通」は手に入らないと思っていた。
昨日、家ついてっていいですか?みたいなテレ東の番組をみた。
亜細亜大学の端正な男子学生が、50社落ちて彼女と別れてしまったという内容だった。
でも彼の部屋は友人からの贈答物で溢れて、人望というほど高尚ではないかもしれないが、彼が仲間内でどんなポジションなのかは想像しうるに足りるだけの情報だった。
きっとそいつが周りにいるだけで、周りのやつは元気になるそんな感じのやつの人間性が富んでいないとは言い難い、でも就活は弱かったのだ。でも確実に人には求められている。頑張れ、就活生。
そして別の話では高校を2ヶ月で退学になった人がコカインやって前科ついても、セラピストとしてなんとか生きていた。
めっちゃいい顔で笑って、幸せだと言っていた。
自分が思っているよりも、レールの外に道はあるのかもしれないと思った。
おわり(・ω・)
もうちょっと面白い記事を書きたい
今自分のブログまじまじと見たんですけど、めちゃ暗くないですか?
初見だったらこいつ親でも殺されたんか?!ってなりますね。
仮に生きてる俺を知らずしてこのブログ読んだら、まじで部屋の隅で延々とヒヨコのオスメス分けてる様な暗い奴だと思われてしまうなと感じ、明るい話題を模索しています。
でもさ、大抵主張したい事にポジティブなことってないよね。楽しいってそれだけで至上、裏も表も煮ても焼いても楽しいもんね。
最近思うのはなんだろ。生まれて初めて海外(台湾)に行ったんだけど、あんまり外国って感じしなかったかな。ブレードランナーの世界みたいだった。
ひたすら飯が旨かった。臭豆腐はめちゃ臭かった。でも嗅いでしまう。俺は絆創膏についた膿とか臭いと分かっていてもとりあえず嗅いでしまうタイプの小学生だった。告白します。
あと思ったより英語も日本語も通じなくて、ゴリゴリ中国語でガン押しされた。郷に入っては郷に従え。社会の厳しさを知った。
昔は中国語と韓国語で「先生単位を下さいお願いします」だけは言えたんだけど、今はシェンマしか言えなかった。
それと現地人でも観光客でも綺麗な人が多くて「あのお姉さんかわいい」を「おいしい」よりも確実に多く言ってた気がする。
そういえば台湾のでかい寺に行ったんだけど、なんと台湾の神は願い事にYESorNOを突きつけるシステムだった。
お願いしてから2枚の木の札を投げて両方違う面が出ればオッケー、でなければやり直し、3回ダメだとその願いを取り下げて別の事をお願いするというかなりエンタメ色の強い感じだった。
俺はとりあえずやりたい仕事につけたし、これは虚飾なしで社会人になっても友達と楽しい生活を送りたいって願ったら1発で通って、出世とお金持ちを願った友達はやり直し食らってた。笑
結局友達もハッピーライフを願うまでお願いをやり直しさせられてて、台湾の神恐るべしってなった。
とりあえずおわり(・ω・)
捨てることと嫌われること
人間には得意不得意がある。
俺は捨てることがめちゃ苦手だ。
先生になった時に使うかもしれないと、自分の履歴書に載らない大層な名門校の赤本をずーーっと本棚1番上で温めていた。
ポケモンで言えば、げんきのかたまりが使えない。
ゼルダ64で言えば、青の薬が使えない。
ファイナルファンタジーで言えば、ラストエリクサーが使えない。
初めてキスをした女の子からのラブレターだって、いつかスナイパーに胸を撃ち抜かれた時にたまたま俺の胸ポケットに入ってて銃弾止めてくれるかもしんねぇな、とか思うと捨てられない。
とにかく、居合斬りの瞬間を待って待って、今だ!と思う頃には自分の首が落ちてるか、仲間が敵の首を刎ねてくれてる。そんな男なのだ。自分ではタイミングを逃し続ける。
これは慎重であるとか、男らしくないとか、用心深いとか、思い切りがないとか、身長が低いとか、周到とか色んな言葉に置き換えられる。
そんで人間関係にも完全に敷衍して当てはまっていて、人に嫌われるのが怖いが故に常に言葉の裏を考えてしまう。
「どれどれ?彼女この人?うわめっちゃいい子そう〜!」は「別に可愛いくねぇな」を
「行けたら行くわ」は「めんどくさい」を
「これはマニアにはたまらない一品ですね」は「言うほど美味しくない」を
「電車遅れててさ」は「うんこなう」か「今電車乗るわ」を含んでいることが多々あると思って聞いている。
最近人にわかってもらえないな、と思うことが増えた。
自分が本当に喜んでることが信じてもらえなかったり、相手が言う俺がこういうことが好きでこういうのが嫌いみたいな事が、てんで外れてたりとかそういうのが多い。
相手の言葉の裏を探しに探して、空港ばりにボディチェックとかしちゃって、傷つかないようにと必死な俺の猜疑心が臭いみたいに相手に伝わっちゃってるって事なんじゃないかなって思う。
構え過ぎてる結果、相手の中の自分の言動とか印象の一致が起きなくて輪郭がボヤけてきちゃうみたいな。
もう少しナチュラルにいれたらと思うんだけど、新しい環境や分析しきれてない人の前ではすっかり借りて来た猫、相手を観察する事に徹してしまう。
強く、優しく、正しくいるなんて事はできない。その全てが矛盾しているからだ。立派になんてなれない。
だからせめて、優しくいたい。今、自分には優しいが他人には優しくできていない。
甘やかす事と優しくする事は同義ではないところまでは、思慮分別があるつもりだ。
優しくいたい。オロナインのように。バファリンの半分のように。
おわり(・ω・)
社会人とダックボイス
三月が終わる。
なぜ1月から始まって12月に一年は終わるのに、事始めは4月なんだろう。春の陽気というものがなんらかのポジティブ感を与えるからだろうか。
花粉症の身としては最も精力的にだらけていたいところに、別離や邂逅がどかどか乗っかってきて、頼むから、少し、休ませてって感じだ。
今、卒業証明書の発行予約をしに大学に向かってる。
いちご100パーセントで真中が、「こんな紙切れ一枚持たされて、機械的に押し出されてく」みたいなこと言ってたけど、まさにそれだ。
大学に愛着はないけど、学生でなくなってしまうことがめちゃ怖い。
卒業式というイベントがもう今後しばらく自分の人生に現れないと思うと、怖くて怖くて仕方がない。
気づけば23歳になった。やばくない?23歳だよ。素数だぞ?
1と23以外で割り切れないんだよ?
黒崎一護(17)も、車谷空(17)も、真中淳平(18)も皆歳下になってしまった。皆5個以上歳下。イルカ先生は同い年。高田純次は57個上。
今凡例にルフィあげるかめっちゃ迷ったけど、あいつは社会性なさそうだからノーカン。
小学生の頃は、何にでもなれると言われた。中学生の時も、ちょいちょい言われた。
高校からは言われないし、大学では自分で専門性を決める。
大人になるとか言うけど、大人なんてものは子供が勝手に作り上げた偶像だ。皆一皮剥けば子供なのに、歯を食いしばって一生懸命大人というロールを演じている。それが社会人なのかもしんない。
大方の稀有な才能を持たない人間にとって、それが飯を食っていくのに1番最適な方法だからだ。
と、少し社会人と触れ合うようになって思う。
未だに俺は真顔でうんことかちんことか言われるだけで笑っちゃうし、精神年齢は18から絶対変わってない。
仮に大人になるというイニシエーションがあるとすれば、大人という鋳型にハマるように可能性を削っていくことだ。
パイロットになる可能性、先生になる可能性、いくつもの可能性を捨ててこそ、人は社会にコミットして、初めて社会に文句を言えるのかもしんない。
なんてことをあと二週間で社会人、というところに置かれると考えてしまう。
ブログを書こうと思ったのは大学時代の形ある思い出があんまりなかったからだ。
しかも大学時代は高校〜浪人時代に比べてかなり脳が腐った感じある。
肯定的に言うと要領が良くなった。誤魔化さずに言うと、擦り切れるほどの本気みたいなのが出せなくなった。器用に手を抜くことを覚えた。
いや、そうでもないかも。昔からマット運ぶ時とかに力入れずに手を添えてるだけのタイプではあった。
こないだ過去の自分のブログや、レポートを見て、総合的に過去の方がちゃんとしてるなって思ってしまった。
過去よりも真摯でいるために、きちんと人と交流するために、時間を作ってブログを書こうと思った。
おわり(・ω・)