座右の銘「グーで殴る」

セカンド童貞がお金持ちのお嬢様のリムジンに轢かれた事をきっかけに逆玉に乗るまでの日々

父が亡くなった。本当は早く死んで欲しかったのだと思う。

父が亡くなってもうすぐ1年が経つ。

 

幾度もこの時の気持ちを書き残しておかねば、とは思っていたが、自分の中で父親を亡くしたことはさほど重要なトピックではなかったことが、この時差の結果だろう。

 

おそらく、ずっと父のことは好きではなかったのだと思う。

 

この家は、土地は、墓は、長男は〜という自分と家族主義の言葉の多くが寄せられる度、この人は現代を生きていなく、そしてまたその苦しみをわからない(正しくは知らない)のだと思った。

 

父は財政面に置いては良い父親だったと言える。

ベッドタウンに庭付きのマイホームを構え、一姫二太郎で犬もいる。

 

ただ、その実、モテやカネ、人望、あらゆるコンプレックスから他者を攻撃せねば自我を保てない、哀れな人間でもあった。

 

テレビのクイズ番組を見ながら、「おバカ枠」や「タレント枠」で質問に答えられない人たちを執拗に詰り、マウントを取った。吐き気がしそうだった。

 

学歴主義で、俺が3流にも満たない大学に入ると、よくクイズ番組を一緒に見て、短大卒の母と同程度の大学卒の姉と俺にもマウントを取った。

 

俺が「学歴がないのに」クイズを父より解答できるようになると、一緒に見たがるのをやめた。

 

土地のことや金のこと、自分が不利になる話題には口をつぐみ、後でまとめると言っては逃げ続けた。

 

小学生の頃、父が「天国には金を持って行けない」と言っていたが、文字通り金を持っていなかった。借金もあった。何か必要な出費があったわけではなく、会社員だったころの「値札を見ない暮らし」を続けていただけだ。あるいは、女遊びかもしれない。なんにせよ、「のうのうと生きていたツケ」を払ったのは俺と家族だった。

 

余命3か月を宣告された時は今生きている父も亡くなると思うと気の毒だとは思ったが、勝手に生きて勝手に死ぬんだなと思った。

 

思い返せば、父親らしいことをしてもらった記憶がほぼない。

野球を教えたかったらしいが、見事にスポーツ嫌いに育ち、勉強も褒められることはないが、詰られることはあるので好きなようには育たなかった。

 

高校生の時に、紛れもなく人生で1番頑張ったことは文化祭だった。文化祭が有名な高校で、今でも人生で1番頑張ったことは文化祭だと思う。

 

両親に自分の今の人生の集大成だから、文化祭に来てほしいと伝えたが、来たのは母だけだった。父は家で寝ていた。

 

たぶん、表層的にうまくやっていたと思うが、それ以来父との間に大きな隔絶があったような気がする。

 

父が死んだ時も、つきっきりだった母がやっと解放されたと思った。父が危篤だと聞いても、俺は仕事メールを返してから向かい、死に目には会えなかったが、別にそこに特段の後悔もない。

 

整理するから死んだら見てくれ戸言われていた携帯のメモには何も書いておらず、あまりに無責任な「死に逃げ」に憤り、わざわざ骨壷の蓋を開けて骨を殴り割った。スカスカの骨はあっけなく割れた。割れたと言うよりも裂けたに近かった。

 

そんなことをしようとも父と息子の何かは変わるわけではなかった。

 

父が癌で余命3か月を宣告されてからも、亡くなった日も、荼毘に付した日も泣かなかった。悲しくもなかった。

 

亡くなった数日後の夢でだけ泣いた。父が夢に出てきて、「死んだのに泣いてあげられなくてごめん」と夢の中で泣いた。けどこれはきっと自分のために泣いているんだろう、と夢ながらに思ったし、実際そうなんだとも思った。

 

母は専業主婦とパートで、少しのPCスキルもなく、それを学ぶ気も本人になく、姉はコロナの影響を仕事で受けており、家族の中でもっとも金を持っているのは自分になった。

 

生きることへの責任を感じるとともに、家族とはなんなのかを改めて考え続けている。未だによくわからない。

 

家族は3人になってしまった。行動をしなければこのまま3人、2人、1人と減っていくのだな、と思った。

だからと言って無作為に家族を増やすと言うほど、家族とは良いものなのだろうか、と日々思う。

 

ただ母親の余生は幸せを感じさせたいと強く思った。

まだ自分にとっての幸せも探している途中だ。