その先を知ってしまった俺たちは
東京で一人暮らしをしていて、ベランダから隣のマンションを見ると、得もいえぬ何かに飼育されているような心待ちになる。
綺麗に区画された、縦長のマンションに押し込まれた人間たちは、なんとなくハムスターとその家を想起させる。
このブログを書いている時、ないし言葉の力に頼りたい時と言うのは、総じて思いが生まれた時なので、だいたい悲しい時か怒りを覚えた時だ。
今は悲しくも怒りもないが、ただ、どことなく、空虚だ。
4月から別の部署に異動した。
強い気持ちでやりたいプロジェクトがあって、名指しで希望を出し、ロビー活動もしたのにそのプロジェクトにはつけなかった。
まぁそうだよな、と思う。
100%うまくいく、ということはそうそうない。
最初こそ右も左も、という感じだったが、
延々と続く在宅ワークと鍋+うどん&唐揚げが俺の脳をかき乱してバターにした結果、曜日感覚を失いつつある。
日々の弾力は失われても、秒速の遠野くんのように達観することもなく、歯槽膿漏の歯茎のようなしおしおな日々を泳ぐことしかできないのだ。
自分の子供ができたらあの時は…と語ることになりそうだが、俺たちの生活は未知のウイルスによって一変してしまった。
しかも発達し過ぎた医療のせいで、なまじ人の命がたすけられるため、終息が長引くというのも、なんてアイロニーたっぷりなのだろう、と思う。
自然の摂理と文明の発展規模がちょうど良ければ、スペイン風邪やペストのようにある程度が死に、拡散が弱ったところで対抗策ができるという話の運びになるはずが、良くも悪くもそうは行かないようだ。
人間が世界のルールから反していないということをまざまざと思い知らされた。
改めて日々を豊かにするためには、何かに執着することが必要だと思った。
恋愛だって人に正しく執着することだって思ってるし、金や出世に執着してもいい。究極は生に執着していい。
意味がわからんことになってるのに、代わり映えがないという、アンビバレントな日々を泳ぎきるには執着から生まれる、向こう岸が必要だ。
…なんでそう思ったかは、またにしよう。